自然の覚書


H22.11.3

 一昨日だったか,朝,にわか雨があって虹が出た。その夕方,再びにわか雨があって,虹が出た。

 自然現象として説明できる以上の色だ。


H19.10.7

 彼岸花は9月の中頃から咲き出すが,今でも田圃の畦道で満開だ。気に留めることはあまりなかったが,最近その色が赤だけでなかったことを知り,色々探してみた。

 田圃では赤がほとんどだが,色が変わったものは庭を飾っている。白いシロバナヒガンバナ。黄色い彼岸花のショウキズイセンなどを見つけた。これまでも見ていたのかもしれないが,意識していないと見ていないことになってしまう。ネットの写真で見ると,濃い赤の物もあるようだ。


H19.9.6

 サクラが咲いた。最近は良く聞くし,珍しいことではない。折角ならパアッと満開になればいいのに?

 夏の間中毛虫にやられて丸坊主近くまでになり,その後気温の上がり下がりが丁度良かったんだろうか。華やかさはないが,じっと見つめるにはいい咲き方だ。


H19.9.6

 今年の夏は暑かったので,いろんな昆虫が落ちていた。しかし,玉虫が落ちていたのは初めての経験だ。捕中網を持って野山を駆けめぐっても滅多に出会うことはない(本当かな?)

 死んでいるので,その美しさは大分失われている。それでも十分に美しい!

 いつだったか,雲が怪しく動いた時に雲の周辺が虹色に輝いているのを見た。画像では再現できていないが,夕方の薄暗くなりつつある時に見たので印象は強い。

 もっとも,車を広場に乗り付けて,空を見上げてシャッターを切っていた私自体が,それを見ていた人々にはかなり怪しかったに違いない。

 科学というものは,そんなものかも知れない。


H19.8.28

 その日の午後に,月食があることを聞いた。そういえば,そうだった。けれど,帰宅したときには忘れていた。TVを見て8時頃に思い出した。「見てみるか....」と思って空を見ると,見えていた。雲に隠れたりしながら....

 急いでデジカメと8cm双眼鏡を持って2Fに上がった。オートでコリメートしたら何も写らなかった。そこで,夜景モードでやったら写った! ただ,手持ち撮影だったのでブレてしまった。

 お陰で,超拡大の火星・金星かと,一瞬思えた。


H18.10.21

 四国の立江から,鶴林寺・太龍寺とつないで歩いてきた。先々週のことだ。高速を飛ばしても立江を出たのが9時だったので,途中で日没になることが予想された。
 その日は,天気は良いものの風が強くて難儀した。ちょっとした峠をいくつか越えるのだが,徒歩であるのに景色が刻々と変わっていくのが,車に慣れた身にとっては不思議でならなかった。蟻の話ではないが,人間という,この些細な存在が,それなりの能力を持っていることに驚きだ。鶴林寺も太龍寺もそんなに高い山ではないものの,山頂に建立されている。ずっと昔に荘厳な仏閣が建てられたことに,そして1200年の時を越えて,弘法大師の足跡を辿って,我々を含んで多くの遍路が歩いていくことに驚きを隠せない。結局,太龍寺を下りて国道に出る前にすっかり暗くなってしまった。バス停で最終バスを待っている間に満月が出てきた。山の端をくっきりと際だたせて現れた白銀の月を見ていると,心の奥底がサワサワと動き出すのが感じられた。

 その翌週も四国を訪れた。前回バスに乗ったところから,平等寺・薬王寺と歩き通す。25キロほどの距離だが,やはり出発が9時になったので,17時までに薬王寺へ着くかが心配だ。高くないとはいえ,峠をいくつか越えなくてはならない。
 天気はよいし,台風の風があって涼しいのが何よりだ。歩きのペースは5km/時くらいではなかったろうか。思考が止まるのだろうか,時間の経過が感じられない。そのため,景色の変化が速く感じられる。ウォーキング・ハイとでもいうのだろうか。昔の人もこんな感じだったのだろう。だから,東海道を何日もかけて歩けたのだろうと思う。行程半ばから海沿いに歩いた。岬をいくつも回り込んで,切り通しを通って,16時半には薬王寺に着いた。寺の高台から海を見ると,鷲敷の山の中にいた我々が今ここにいることが実感として理解できなかった。同時に,人間の能力の大きさに感動した。


H18.10.4

 以前,TOPページにも出したが,消えてしまったのでここに記す。

 最近,老眼が進んで渓流でフライを交換するのが難しくなっている。それはともかく,生活上で困ることは,目にゴミや睫毛が入った時だ。鏡を覗いてもピンぼけで見えない。近寄って良く見ようとすると尚のことだ。

 ある時,虫眼鏡を持って鏡を覗き込んだところ,巨大な自分の目に驚いたことがある。これだ! 鏡と虫眼鏡を重ねて見てみると,異常にはっきりと自分の目が見える。ここで,ティッシュを使ってゴミを除くことができる。困っていた人は,試してください。虫眼鏡ということで,自然の覚書に記入。


H18.9.30

 全長が3mmほどの小さい蟻がいる。かれらの体に比べれば遥かに大きなフィールドをちまちまと動いていく。この小さな体の何処に長距離を移動していくエネルギーが入っているのだろうか。あんなに細い6本の脚のどこに筋肉が入っているのだろうか。第一,あんなに小さな頭で,何を考え何処を目指して進んでいくのだろう。

 何の役にも立たない私の大きな腹がどうにも不細工でならない。


H18.9.6

 その昔,といっても確か教員になりたての頃だったと思う。理科の教員なので,最新のニュースを生徒にも知ってもらおうと考えていた。

 その頃話題になっていたのは,「氷河期が来る!」というものだった。氷河期は,核戦争の「冬」とは違って,太陽活動の低下からくる熱量不足によるものだ。理科教員の私は,特に食糧不足の点から,どのように生き抜くか生徒に力を込めて説明した。雑草も昆虫も有り難く食べなければいけない時代が来る! 気温低下に備えて,体温も下げるように努力した! と嘘っぽい話も含めた。

 ところがだ,世の中は二酸化炭素増加のために温暖化に向かっている。相殺して変化がなければいいのだが,温暖化の方が勝っている。私の話は嘘っぱちになってしまった。もっとも,冥王星が惑星から外れるくらいだから,科学とはそんなもの。だから面白い。とでも,生徒には説明しよう。

 考えてみると,今後の地球環境を考えてみると,寒冷化した時は二酸化炭素放出で元に戻すことができると分かったことは良かったかもしれない。待てよ,太陽活動が活発化した時は,どうやって冷やすのか? 無害の灰でも大気圏にばらまくか。そんな人間に優しい爆弾を誰か考えて欲しいものだ。


H18.8.25

 太陽系の惑星が,12個になるという報道からしばらくあって,投票の結果で冥王星が惑星の地位からずり落ちて8個になったと,ニュースが伝えていた。科学はどんどん進歩しているのだから,そういった内容が変わることは自然の成り行きだから驚きに当たらない。ただ,冥王星を発見した人の国は,思い入れが強いらしかった。

 火星と木星の間には小惑星帯があるのでいくらでも惑星が出てきてもおかしくない。冥王星よりも遠い所にも充分惑星と呼ばれる星があるとは思うが見えにくいので仕方ない。しばらくの間は,大きさと人々の親しみによって現状の8個が惑星と呼ばれるのは異論がないところだ。

 教科書会社が云々という報道は妙だった。教育の世界では,特に理科の教員は,教科書に書いてあることが絶対だ!なんというスタンスは取らない。科学的知識は時代とともに変わるもの。自然はそれだけ未知のことが多いもの。


H18.8.25

 ちょっと昔の話。

 ある時,授業をしていると,その教室からは眺めが良くて,青々とした水田が広がっているのに感動したことがある。

 こうして毎年,同じ時期に穂が出て,秋には収穫を迎える。毎年お米が獲れる。不思議なものだなあ。とも思った。というより感動した。ところがその直後に,どうしてそんなことが約束されてるの? と無性に不安になって,生徒に投げかけたことがある。

 「稲って毎年実るけど,不思議じゃない? 獲れないこともあると思わない?」

 おそらく植物の時間じゃなかったはずなので,生徒は何のことを言っているのかいぶかしく思ったのではないだろうか。あるいは,いつもの気まぐれを先生は言ってるよ,と相手にしてくれなかったろう。

 けれど,私はかなり真剣に考えていた。誰が実りを保障してくれているのか。誰も保障していない。たまたま自然の法則に従って実っているだけなんだ。自然の帰結なんだ。偶然そこに実ったのだ。偶然というのはお百姓さんに悪いので,必然的に実っただけなんだ。でも,この法則というのは怖い。条件が変わったら法則は変わらなくとも結果が変わってくる。毎日変わらず太陽が巡り,毎年同じように季節が巡るのでみんな安心しているだけなんだ。条件が変わったら毎日や毎年が同じようにはならない。

「もしかして,稲が実らないことがあるんじゃないか」とつぶやいた。

 その後,授業はいつもと同じように続いたが,その年は稲の実りが悪くて米不足になり,日本は初めての米輸入に踏み切った。


H18.8.25

 大昔,地球に25kmほどの大きさの彗星が衝突をして気候が変化し,繁栄していた恐竜が絶滅した。彼ら恐竜はその事実を知らずに死んでいった。これにより,あまり大ぴらに生活できなかったほ乳類が台頭してくることとなる。

 現在は科学が発達し,星空のあちこちを観測してそういった脅威をチェックしているので恐竜の二の舞は無いと思う。衝突前には察知し,全人類の総力を挙げて回避することができるだろうからだ。

 しかし,そんな衝突なんて全宇宙規模で考えれば日常茶飯事ではないか。目の前で2つのホコリがぶつかったのを見たことは52年の人生で一度もないが,5億年の人生では1回くらいありそうだ。問題はその頻度ではなく,その事実だ。

 今もし25kmほどの彗星が地球にぶつかったら,かなり人類は危うい。折角の文明や文化が水泡に期す。これは,偶然か,必然か,運命か。それとも神の意志なのか。いずれにしても人間の存在なんてそんなものだ。けれど,そこに存在の意義を見出して真理を追究するなんてのは人間しかいないのだ。誇りに思う。


ホーム